9歳のときに生まれてきた大好きな弟さんを通して、子育てへの参加を経験してきたゆうちゃん。
家庭の中で、大人か子どもかは全く関係なく、意見を尊重しあい、ときに、ご両親から子育て相談を受けながら、人間として対等な関係をナチュラルに体験してきたようです。(詳しくはVol.3にて)
当時、若干9歳にして「保育士になる」と決めていたゆうちゃんは、都内の保育園で保育士として働き始めることになるのですが…
今回は、そのゆうちゃんが描いていた夢の1つである「保育士になる」を叶えるまでのぎゅぎゅっと濃密な体験のことを、”ゆうちゃんの生い立ち〜後編〜”としてお届けしていきます。
ぎゅぎゅっと濃密な10代の社会経験
―― ゆうちゃんは、「保育士になる」と決めて、その後、保育専門の大学へ進学されたのですか?
ゆうちゃん そうですね。「保育士になる」というのは、もうずっと、9歳のときから決めていて。
中学生のとき、社会体験・職場体験というのがあったのですが、行き先を決めるときに、実際に保育の現場を見てみたいなと思って。
自分が通っていた幼稚園に、弟も当時通っていたので、行ってみたらどうかなと。
僕は学級委員長を務めていたという状況的なこともあって、クラスの中で「行ってみない?」って提案してみたんです。
当時、中学校は体育祭のシーズンで、クラスのみんなでダンスに取り組んでいました。
幼稚園に行って、いきなり子どもたちと「さぁ、遊ぼう」って遊ぶよりも、最初にみんなでそのダンスをパフォーマンスとして披露したらどうか?というのもあわせて提案しました。ダンスを通して、こんなお兄さんや、お姉さんが来たんだよって知ってもらえたらと思って。
実際の幼稚園見学のときには、ダンスパフォーマンスが終わった瞬間に、幼稚園の先生方が「さぁ、みんな。好きなお兄さん、お姉さんのところに行ってみよう!よーいドーン!」と言ってくれて。
そうしたら、すごい人数の子どもたちが僕のところにやってきてくれて、もみくちゃにされて、すごい顔してたと思うんですけど(笑)。
このときに、めっっっちゃ幸せやと思いました。
絶対、この仕事に就きたいと思いました。
高校に進学し、いろんなセミナーに参加したり、子育て関係、保育関係の本も読みましたね。あと、あの、クレヨンしんちゃんが大好きで!汐見稔幸先生(※)がクレヨンしんちゃんの子育てについての本を書かれているのですが、興味を持って読んだりしていました。
当時、汐見先生がどんな方なのかもあまり良く分かっていなかったのですが、高校2年生のときの担任の先生が、「汐見先生の講演会があるよ」ということを教えてくれたんです。
「三原くん、これ絶対いいよ。行ってみたら?」て、わざわざチラシを持ってきてくれて。すぐに行くって決めました!汐見先生のお話を聴いて、すごく感動して、たくさんメモも取りました。それだけで想いが収まりきらなくて、お手紙を書いたり。
さらに、その講演会の運営をされていた徳島県の子育て支援団体の方々がとてもステキな方々で!
みなさんの保育や子育てへのあたたかな想いに胸がいっぱいになり、語り合い、とっても仲良くさせていただきました。
その後もふらっと事務所にお話しに伺ったり、県の教育関係の方々とも仲良くさせていただくようになったり。
―― やはり、出発点がちょっと多くの人とは違うんですよね。この時点で既に、色々な社会経験をされていますよね。
ゆうちゃん 基本的に、一人でどこでも行けちゃうので…。一人で、しゃぶしゃぶとかも行けるから(笑)。
仲良くなった方が、また別の方を紹介してくれて…という中で、県内のとても素敵な子育て支援の場所での、ボランティアのチャンスをいただいたんです。高校2年生のときでした。
そこは子育て支援施設なので、0歳〜2歳くらいのお子さんたちが、お母さんと一緒に遊びに来ることが多かったので、お母さんもいる中でお子さんと関わったり、お母さんとお話をして、お悩みを伺ったり、ということを経験させていただきました。
そこで、親子のサポートをもっとやりたいなっていう思いを持ちながら、保育も学んでの日々で。感覚としては、保育現場にいるようでしたね。
―― すごいしか出てこないです…!そんな体験をされてきたとは知らず、もうびっくりしてしまって…。その後、保育を学ぶために通った大学はどうでしたか?
ゆうちゃん すごい楽しくって!大学時代が一番忙しかったかもしれないです。
お昼休みにおにぎりを食べながら、次の打ち合わせに行くみたいな生活でした。
子ども向けのイベントをするサークルに入り、所属していたゼミは、身体表現ゼミというところで、県内のいろんな保育園や小学校などでダンスのワークショップイベントをしていましたね。
それで、アルバイトもして。大学1年生のときに、お寿司屋さんでアルバイトをしていたのですが、急に、「子どもと関わるお仕事をとにかく早くやりたい!」と思い立ちまして…。
そのあとすぐに、学童、保育園、知的障がいのある子どもたちと生活する施設、支援学校の隣の施設の夜勤、児童相談所の一時保護では日勤・夜勤の両方、これを全部やっていました。
もう、スケジュール帳真っ黒!!
毎日何かしらの予定が5つぐらいあって、家に帰らずに夜勤先からそのまま学校に来て、授業が終わったらまた夜勤、のような生活をしていました。原付を乗り回してね。
その様々なアルバイト体験から、いろんな境遇の方々と心を合わせるということが経験できました。
知的障がいのある子どもたちの施設では、年齢も3歳から18歳、個性も状況も必要な支援もその子によって全く違います。その中で、自分は一学生ですけれど、どう関わっていくかということに常に向き合おうとしていました。
日々、色々な出来事が事件のように起こりますが、その中で常に人と人という対等な関わりを持っていらっしゃる先生から学びを得たり、「子ども達にこう関わりたい!」という想いもどんどん湧いてきたり。
そこかしこで、言葉なき言葉を汲み取って、寄り添っていくという貴重な体験をさせていただきました。
児童相談所では、ニュースの世界だと思っていたことを目の当たりにして。たくさんの状況を見ていく中で、なんかもう「悪者はいないな」って本当に思ったんです。
子どもに関する悲しいニュースを見聞きすると「なんで、そんなことするの?」って大人を責めたくなる気持ちもちょっとあったけど、でも、現場にいて、色々な背景を聞いて、経済的な困窮もあれば、親自身が同じような境遇にあって、それしか子育てを知らないこともある。色んな背景があって、この状況がある、ということを身近に感じたからこそ、人間そのものが悪いわけではないと。
そうした話を聞くのは胸が痛かったけど、そんな状況の中で不安定になる子どもたちにどうやって寄り添おうか?ケアの専門家ではない僕ができることってなんだろうって考えました。
それで、一回でも、一瞬でも、この子たちが楽しいって思える時間を作りたい、そうなったらいいって思いながら、一緒にゲームしたり、折り紙したり、体育館でバドミントンを一緒にやったり。歳が近いからこそ、一緒に遊ぶ中でちょっとでも心を開いてくれて、「あー楽しかった」、「あ、これ楽しいな」って思える瞬間を作りたいという思いで関わらせていただきました。
本当に貴重な経験でした。
思いがけない形で訪れた、転機
そんなこんなで、大学まで徳島にいたんですよ。徳島、大好きで。
両親や家族も仲がいいし、大好きだし、友だちも好き。もうずっと、「徳島で就職するからね」って言ってたんです。就職しても、実家に住んで助け合って生きていこうねって。
それが、いきなり大学4年生のときに、空の方から声が聞こえて…
「あんた、東京に行きなはれ」
て、言われたんですよ。
僕もちょっとぶっ飛んでるところがあるので、「え、なんで?」って聞いてみたんです。
そうしたら、
「今、出なかったら一生徳島に居ることになるよ。それはそれでいいかもしれないけど、出るなら今。外の世界を感じて、学んで、成長してって、出来るのは今がチャンス」
なんて言われて。
「わかりました〜。じゃあ、東京行きます」
みないな感じで、180度変わって(笑)。
両親に伝えたら、「え!話が違うやんか!えー、寂しい」と言われましたが、でも、「やりたいことは何でもやりー」っていうスタンスの両親なので、何でも応援するよって言ってくれて。
東京に就職すると決めて、区立の保育園で働くことになりました。
―― 見てくれていたんですね、グレートな存在が。
ゆうちゃん 急に思い立ったんですよ。
Vol.5に続く
ゆうちゃんは、直接会って話をするときも、メッセージでやり取りをするときも、常に相手を最大限尊重していて、目の前の相手にどんなことが届けられるか?を考えている。その姿勢が、一時も変わったことがありません。
今回のインタビューを通して明らかになった、ゆうちゃんの10代からの社会経験の量や質。本当に様々な経験をされてきたことが、今のゆうちゃんを形作っているのだと思わされました。
そして、ちょっと不思議な体験をして、東京に出ることになったようです。
次回は、東京で保育士として働き、後に、独立をしていくまでのお話を伺っていきます。